長く空き家となっていた愛媛県西条市の実家、私が生まれ育った家は、おかげをもちまして新しい譲り先が決まりました。
妻と二人で空き家の整理を始めてから一年余り。家財を一つひとつ片づけながら、父母の面影や幼い頃の記憶と向き合ってきました。ようやく先が見えた安堵感がある一方、生家が自分たち家族の手を離れる寂しさは、簡単に言葉にできるものではありません。
7月19日、家族で生家とのお別れ会をいたしました。
前日の7月18日、東京から車を走らせてきた娘家族と、伊予西条駅前のホテルで合流しました。長距離運転の疲れをねぎらい、夜は皆で焼肉を囲みました。娘夫婦や孫たちの元気な声を聞きながら食卓を囲むと、寂しさのなかにも温かな気持ちが広がりました。生家との別れは、過去を閉じるだけの日ではありません。家族の歩みを次の世代へ伝え、新たな出発を祝う日でもあるのだと感じました。
翌朝、家族で最初に向かったのは、西条市中野に鎮座する伊曽乃神社です。
伊曽乃神社は、古くから伊予国を代表する大社として崇敬を集めてきた由緒ある神社です。『延喜式』神名帳に記載された式内社で、その中でも特に格式の高い名神大社に列せられました。奈良時代には伊予国第一の大社として朝廷からも厚く崇敬され、近代社格制度では国幣中社となりました。
御祭神は、天照大神の荒魂と武国凝別命(たけくにこれわけのみこと)です。天照大神の荒魂は、太陽の恵みとともに、新しいものを生み出し、物事を前へ進める積極的な力を象徴するとされています。武国凝別命は、伊予三村別(いよみむらわけ)として、伊予国の開拓と発展に関わった祖神として伝えられています。長年暮らした家を手放し、家族が新たな一歩を踏み出す節目に参拝するには、まことにふさわしいお社であったように思います。
伊曽乃神社は、豪華絢爛な「西条まつり」の中心としても知られています。毎年10月15日の未明に始まる宮出しから、16日の宮入りまで、80台余りのだんじりとみこしが奉納されます。無数の提灯をともした屋台が、太鼓と祭りばやしに合わせて暗闇の中を進む光景は、西条人の心の原風景です。西条を離れて長くなっても、祭りの季節になると、故郷の空気や人々の声がよみがえります。西条まつりは単なる行事ではなく、地域の歴史や信仰、家族の記憶を世代から世代へ受け継ぐ大切な文化です。
この日は、家族が無事に集うことができたこと、長年の懸案であった実家の譲り先が決まったことを感謝し、これまで家族を守っていただいた御礼と、生家の新たな旅立ちを静かに報告いたしました。そして、娘夫婦と孫たちがこれからも健康で、それぞれの道を力強く歩んでいけますようにと、手を合わせました。
伊曽乃神社を後にして、私の母校である愛媛県立西条高等学校へ回りました。母校は、今の私へと続く人生の出発点の一つです。西条を離れてから歩んできた長い歳月を振り返りながら、生家との別れを前に、もう一度自分の原点を確かめる時間となりました。
そして、西条市小松町北川にある実家へ向かいました。
実家の南側には児童公園があり、その向こうには、西日本最高峰の石鎚山を一望することができます。晴れた日には、石鎚の堂々とした稜線が空を支えるようにそびえます。春の柔らかな山並み、夏の深い緑、秋の澄み切った空、冬の雪化粧、その姿を眺めながら育った私にとって、石鎚山は単なる故郷の景色ではありません。いつもそこにあり、黙って家族を見守ってくれた、心の拠り所でした。
皆で、家の内外を見て回りました。娘夫婦や孫たちも、別れを惜しみながら、それぞれの目でこの家の姿を記憶にとどめてくれました。東京で暮らす子供や孫たちにとって、この家で過ごした時間は限られていたかもしれません。それでも、自分たちの母親が育ち、祖父母やご先祖様が暮らした場所に立つことには、大切な意味があると思います。
また、私にとっての生家は、建物だけで成り立っているのではありません。庭の草木、柱や建具の傷、台所の匂い、父母や祖母の声、家族で囲んだ食卓、ご近所の皆様とのお付き合い。その一つひとつが重なって、「ふるさと」という場所が形づくられています。
この日は、子どもの頃からお世話になったご近所の皆様を訪ね、生家を譲ることになった旨をご報告し、長年のご厚情に御礼を申し上げました。空き家になってからも気にかけてくださり、折に触れて様子を見守っていただきました。離れて暮らす私たち家族にとって、どれほど心強いことであったか分かりません。家は人が住まなくなると、急速に力を失っていきます。しかし、地域の方々のまなざしがあることで、生家は長い間、静かにその姿を保つことができました。改めて、家は家族だけのものではなく、近隣とのつながりの中で守られてきた地域の一部であったことを実感しました。
その後、父母をはじめ、ご先祖様が眠る菩提寺である法安寺へ参りました。法安寺は、「千本ボタンの寺」として親しまれる一方、愛媛県内最古級の寺院遺跡として、極めて重要な歴史を持っています。飛鳥時代に創建されたと考えられ、伝承では、推古天皇4年、すなわち596年の聖徳太子伊予行啓に関連して、太子の命を受けた国司・越智益躬が建立したと伝えられています。境内には、古代寺院の塔や金堂、講堂の跡とみられる礎石が残されています。南から北へ、中門、塔、金堂、講堂を一直線に配置する「四天王寺式伽藍配置」を示す遺跡とされ、飛鳥、白鳳、天平から平安時代に至る各時期の瓦も数多く出土しています。なかでも、蓮の花をかたどった素弁八弁蓮華文の軒丸瓦などが発見されていることから、飛鳥時代に寺院が創建され、その後、時代を重ねながら伽藍が整備、拡張されていったと考えられています。1944年には国の史跡に指定されました。現在の薬師堂の周辺にも、古代寺院の金堂跡と考えられる礎石が残されています。春になると境内には色鮮やかなボタンが咲き、「千本ボタン」の名所として多くの参拝者を迎えます。そして、法安寺には、父母をはじめ、多くのご先祖様が眠っています。実家を譲ることになった経緯を報告し、長い間この土地で家族を守り、導いていただいたことへの感謝を申し上げました。「生家は私たち家族の手を離れますが、新しく住んでくださる方へと受け継がれます。どうか、これからも静かに見守ってください」そう心の中で語りかけ、手を合わせました。
家を手放す寂しさは消えません。しかし、誰も住まないまま朽ちさせるのではなく、新しい方に住み継いでいただくことができます。これは「終わり」ではなく、生家にとっての新しい旅立ちです。私たち家族の記憶を抱いた家が、これからは別のご家族の暮らしを包み、新しい笑い声や思い出を育んでくれることを願いました。
そして、7月29日、この日は、私一人、いよいよ実家譲渡の本契約を結ぶため、瀬戸大橋線から予讃線を乗り継ぎ、再び伊予西条へ参りました。司法書士の先生の事務所で手続きを行い、契約は無事に終了しました。長年、心に掛かっていた大きな課題に、ようやく一つの区切りをつけることができました。
本来であれば、肩の荷が下りたことを素直に喜びたい日でした。しかし、その直前、熊本県熊本地方を震源とする大きな地震が発生しました。2016年の熊本地震から、地域の皆様が長い年月をかけ、ようやく暮らしとまちを立て直してこられたなかで、再び強い揺れに襲われたことに、言葉にならない悔しさを覚えます。被災された皆様に、心よりお見舞い申し上げます。
翌日7月30日に福岡市天神で開催予定であった、地域公共交通の再生に向けた全国シンポジウムも中止となりました。西日本鉄道の皆様に幹事役を担っていただき、各地の関係者が集まる予定でしたが、安全を最優先とする判断となりました。
激甚災害は、尊い人命や住まいだけでなく、仕事、学び、交流、地域活動など、私たちが積み重ねてきたさまざまな機会を容赦なく奪います。道路、鉄道、バス、電気、水道、通信といった社会インフラが、平穏な暮らしを支える基盤であることを、改めて思い知らされました。
一軒の生家を次の方へ引き継ぐことと、被災した地域の暮らしを再建することは、規模こそ異なりますが、そこには共通するものがあります。それは、建物や施設だけを残すのではなく、人の記憶と営み、地域のつながりを未来へ受け渡していくということです。
実家との別れを迎えた今、改めて思います。
生家は、父母と家族を守り、私を育て、いつでも帰ることのできる場所であり続けてくれました。この古い家は取り壊され、新たな家が建てられるとお聞きしました。これからは新しいご家族のもとで、新たな歴史を刻んで頂きたいと祈念しました。
新しい旅立ちを心から祝いました。
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