ジイジの夏休み―島根の有福温泉と石見海岸―

先月、浜田市で講演をさせていただいた折、参加者の皆さまから、「次回こちらへ来られるときには、ぜひ有福温泉に入ってみてください」と薦めていただきました。その言葉をふと思い出し、8月8日、早朝から高速道路をひと走り。島根県江津市の山あいにたたずむ有福温泉へ向かいました。

有福温泉は、約1370年もの歴史を持つと伝えられる山陰屈指の古湯です。緑深い山々に囲まれ、石畳の階段に沿って赤瓦の旅館や湯宿が立ち並ぶ温泉街には、華やかな観光地とはひと味違う、ひなびた良き風情が残されています。温泉街へ足を踏み入れると、どこか懐かしく、時間の流れまでゆっくりになったように感じます。坂道と石段、年季の入った建物、軒先に掲げられた看板。その一つひとつが、この土地で長く受け継がれてきた湯治場の歴史を物語っています。

まず、最初に訪れたのは、温泉街の象徴ともいえる共同浴場「御前湯」です。洋風の意匠を取り入れたレトロモダンな建物は、昔の温泉町へ迷い込んだような味わいがあります。この温泉のお湯は、無色透明のアルカリ性単純温泉です。古くから「美人の湯」として親しまれてきたそうで、湯船に身を沈めると、肌をやさしく包み込むような、なめらかな感触が伝わってきます。朝一番にいただくお湯は少し熱めでしたが、それもまた昔ながらの温泉らしい醍醐味です。最初は恐る恐る体を沈めながら、しばらくすると熱さにも慣れ、手足の先までじんわりと温まってきました。残暑厳しい季節ではありますが、熱めの朝湯にゆっくり浸かると、不思議なことに湯上がりはさっぱりと爽快です。ここまでたまっていた夏の疲れが汗とともに流れ出し、体だけでなく心まで軽くなったように感じました。

御前湯の2階にある休憩所は、懐かしい華やかな時代の温泉街の写真が並ぶレトロな写真館のようになっています。芸者さんが居た時代のかつての温泉街の姿や、そこで暮らしてきた人々、湯治客でにぎわった時代の面影を伝える写真を眺めていると、有福温泉が単なる入浴施設ではなく、人々の暮らしと交流を支えてきた場所であることが分かります。便利さや新しさだけを追い求めるのではなく、こうした温泉町ならではの風情と記憶を大切に残しながら、次の世代へ受け継いでほしいものです。静かな町並みの中には、ここでしか味わうことのできない、豊かな時間がありました。

三軒の共同浴場をハシゴすることができます。やよい湯、さつき湯と三つの温泉を楽しんだあとは、ひと休み、当地名代の善太郎餅本店を訪ねました。冷たい抹茶と善太郎餅を頂きました。小ぶりで素朴な味の甘味に舌鼓です。お店は相当に年季が入っており、お客さんも平日とあって地元の皆さんです。しばし会話を楽しませて頂きました。見知らぬ者が訪ねても、温かく迎えてくれるこうしたコミュニケーションが自然と生きているのが地方の良さであります。

そして、何と言ってもお目当ては出雲そばです。みなさんそうでしょうが、島根方面へ来れば、出雲そばをいただくことが旅の大きな楽しみの一つだと思います。今回は、「鴨せいろ」ならぬ「猪せいろ」(ジビエ蕎麦)を初体験しました。香りのよいそばを、猪肉とネギの入った温かいつけ汁でいただきます。猪肉には野趣がありますが、思っていたほど癖は強くありません。かむほどに肉の旨味が感じられ、香ばしく火の通ったネギとの相性もまずまずでした。温泉周辺の山の恵みを感じさせる一杯です。温泉で体を整え、その土地ならではの食材を味わう。これもまた、地域を訪ねる旅の醍醐味です。

 

有福温泉で心身を癒したあとは、山あいから日本海側へ車を走らせ、石見海岸へ向かいました。浜田市から江津市にかけて続く石見の海岸線は、白い砂浜、青く澄んだ海、岩礁や松林が織りなす変化に富んだ景観が魅力です。日本海というと冬の荒波を思い浮かべますが、夏の晴れた日の海は深い青色に輝き、空と海との境目が分からなくなるほど雄大です。一帯には島根県立石見海浜公園が広がり、長い砂浜の向こうには水平線が伸びています。少し足を延ばせば、明治5年の浜田地震によって海底が隆起してできた国指定天然記念物「石見畳ヶ浦」もあります。日本海の波と大地の動きが長い歳月をかけて形づくった、石見ならではの自然景観です。

ところが、この日の暑さは尋常ではありませんでした。真夏の石見海岸を一望しても、海水浴客の姿はほとんど見当たりません。本来なら子どもたちの歓声が響き、色鮮やかなパラソルが並ぶ季節ですが、あまりの酷暑に、さすがの海水浴客も外出を控えているのでしょう。私も車から降りて砂浜を歩く元気はなく、エアコンをしっかり効かせた駐車場の車内から、日本海を眺めることにしました。これは海水浴ならぬ「景観浴」です。涼しい車内から、青い海、白い砂浜、遠くに伸びる水平線をゆっくり眺めます。潮風を直接浴びることはできませんでしたが、雄大な景色を眺めているだけで、心の中には涼やかな風が吹いてくるようでした。

山あいの有福温泉では、熱めのお湯に浸かって夏の疲れを流し、石見海岸では、どこまでも続く日本海を眺めて気持ちを解き放つ。温泉と海、静かな山里と雄大な海岸線という、石見地方の二つの魅力を一日で味わうことができました。

まだまだ残暑は続きます。無理をせず、休むときにはしっかり休み、ときには温泉と美しい景色に身を委ねることも大切です。

ジイジの夏休み。有福温泉の朝湯と猪せいろ、そして車内からの「石見海岸景観浴」で、ここまでの夏の疲れをゆっくり癒す一日となりました。

 


■関連リンク

有福温泉公式サイト

島根県立石見海浜公園

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